飛行機も当時は(ニューヨークでテロが起きる前でした)国内の航空会社をはじめ、ヨーロッパ・アメリカの航空会社は酸素を利用したままの搭乗が出来ました。
父の負担を軽くするために仙台から上海に行くことにしましたので、中国の航空会社を利用しました。
当時友人が上海に駐在していて、上海での酸素のことやいざという時に駆け込む病院の事など調べて下さいました。
日頃利用している酸素会社にも中国での酸素事情など調べてもらい、在宅酸素の会の方にもお話を伺いました。結果、中国ではまだ自宅で酸素が使えるようなシステムは無いようでした。
そんな訳で滞在期間中に必要な酸素ボンベを全部持参することにしました。車いすも用意し、20キロの酸素と身の回り品を持ってと大変な荷物になりました。
航空会社とはなんども搭乗に必要な書類のやり取りをし、いよいよ出発です。
沢山の荷物に車いすの父、車を運転し仙台空港に行きました。搭乗券をもらい荷物を預け、さあ搭乗という時に、航空会社の担当者が「感染性の病気ではない」という証明書が必要だと言い出しました。チケットを買うまでしつこいくらい何度も必要書類について問い合わせをして、要求される書類を提出していたのにです。
その日は日曜日、父の主治医は盛岡の先生。どうやって連絡とるのよです。頭が真っ白になりました。相手は書類がなければ乗れないの一点張り。仕方なく病院に電話をし、先生に連絡をとって頂きました。幸いなことに先生が口頭で証明して下さり翌日に書類をFAXで送るということで、やっと搭乗することが出来ました。
帰りに又同じことが起こっては大変なので、そのことを伝えて機上。
上海では手配したガイドや友人が出迎えてくれてほっとしました。上海は高層ビルが多く大都会です。その頃はまだ、低層階の古い街並みも少し残っていました。
上海に住む友人のおかげで上海博物館・豫園・お買いものと毎日が楽しく快適でした。父も酸素に車いすと中国ではない姿で行きかう人に珍しそうに見られましたが、とても元気。
足をのばし杭州にも行きました。34度いう暑さで遊覧船に乗ってもぐったりです。楼外婁で好物の豚の角煮を食べました。とろけるように柔らかく美味しかったです。
湖は中国でも有名な景色のいい所ということでしたが、十和田湖など日本の美しい湖を知っている私達には水も汚くて感激はありませんでした。
杭州に2泊する予定でしたがあまりの暑さで1泊で上海に戻りました。
足揉みマッサージを受けたり、JAZZのライブを聞いたり
1週間というゆったりとしたスケジュールで上海を満喫し帰国の日を迎えました。
上海空港で搭乗券を受け取り、荷物を預けお世話になったガイドや友人と別れ、出国手続きをした後に、また、飛行機に乗せることが出来ないと言われました。
今度は酸素が危険物だというのです。行きには乗れたのにと訴えても駄目の一点張り。訳の判らないやり取りをしている間にいつの間にか10人ぐらいの人に囲まれ個室に連れていかれました。
酸素はもう最後の1本だけ。これがなくなったらどうしていいか、、、
無事に帰国するしかないのです。かなりのやりとりの後、今使っている酸素を抜けば乗せると。
仕方なく抜くことに同意しました。彼らには酸素を抜くとはどういうことかもよく判っていない模様。
人が行き来している広い場所で抜けと言う。ボンベを開放にするとものすごい勢いで酸素が出て
それに驚いて止めろと騒ぎ、搭乗時に酸素を預ければ乗せると言い出しました。
どうでも良いから乗るしか道はありません。ちょっと偉そうな係官が父の車いすを押しゲートに向かいます。若い係官がずっとその係官に文句?を言いながらついてきます。
なんとか搭乗しボンベを預けました。それを確認し彼らは降りていきます。どうやらこのやりとりのせいで出発出来ないでいたようです。すぐに出発し安定飛行に移った時、機内にいた日本人医師が来てくれて無理しない方がいいですよと言って下さいました。
父も皆さんにご迷惑をかけた申し訳なさもあり、大丈夫ですと酸素無で頑張りました。
あまりに大変な搭乗だったので、飛行時間もあっという間に感じました。
私の旅の中でも一番大変な旅でした。
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