2015年6月20日土曜日

父の旅行記 地中海クルーズ その2

outlookまで不具合が生じ相変わらずパニクッています。何とかoutlookは修復したようですが、アカウントの設定が出来ず、やっぱり新しいプロバイダーのせいらしいのですが、もう更に新しいのに変える予定なので、無駄に疲れるのは止めました。

では先日ご紹介した、父の旅行記 後編をお届けします。


私達には無縁であったが、ディスコルームの喧騒はさすがであった。港に着いて観光に行く時は、その目的によって何種類ものコースがあり、ワッペンを胸に貼って、各々のグループのバスに乗り込む。好天気続きの七月の炎天下を、バスから降りて歩く距離が長い時は大変疲れて、余り欲張らないことだと思った。

昼は地中海沿岸の国々の人達の生活を見、夜は殆どがアメリカ人の集団の中での生活で、最初のうちは異様にさえ感じた。

地中海沿岸巡りは快晴に恵まれ、陽気な人々の快い笑顔に接して、モナコカンヌニースもそれは美しい風景で、碧青の海に感動の連続であったが、短い時間での観光は一個所重点主義に限る、特に美術館ではその感を強くした。

リボルノからフィレンツエへのバスの中では、数多い教会や美術館の見学に期待も大きかったが、ただ人混みの中を泳いでいる感じであった。

フィレンツエは街全体がルネッサンスの財宝をちりばめた一大美術館であり、バラ色の屋根が美しい花の大聖堂、広場にたつミケランジェロのダビデ像やヴェッキオ宮の重々しい建物、ルネッサンス期最高の美術を集めたウフィツイ美術館やピッティ美術館をはじめ、至る処に大芸術家の作品がみられるフィレンツエは、もっともっと時間のある時にゆっくり見たい。

船に帰ると今日はアメリカ合衆国の建国記念日でパーティのある日、フォーマルの服装に着替えて会場に行く。
翌日はイタリア第三の都市ナポリの観光の日であるが、疲れたのでバスによる主要観光地のゆったり観光コースを選び、ナポリ湾を見下ろすボシリボの丘のカフェでの小休止で、喉の渇きを癒しながらナポリ湾の素晴らしい絶景を眺めた。

次の日はベネチアまで、地中海からアドリア海に入り北上する一日中クルージングの日であり、
連日観光に着かれた船客は夫々がプールサイドやスポーツデッキ、カラオケデッキなどで時間を過ごしていた。

私は船の冷房で風邪気味となり、持参した薬の世話になる。日本から持参した粥食を食べてみた。うまくない。
部屋のデッキからアドリア海を眺めて時を過ごす。

船内プール 1

船内プール 2


船内劇場

コスモの戦いでこの船も砲撃を受けたことを聞いたが、思った程の戦時色や緊張感はなかった。

プールサイドでゲームを観戦、巨体が飛び込んで大波をたてると大拍手。スマートな若い女の子には口笛の声援、若い人は楽しそうである。

一日クルージングのお陰で身体は元気に快復出来た。

「ベニスです。水の都ベニス、大運河をゴンドラで行き交う情景は世界中の観光客の旅情を誘うはずです」  アドリア海の女王と呼ばれたベニスの歴史が今眼の前にある。

車の走れないこの町は、船のシャトルバスや水上タクシーから、この街のサンマルコの広場を初めとして寺院や宮殿、ルネッサンス様式の建物やバロック風の建物を見学しつつ、ムラーノ島のガラス工場、ガラスショップを遠望する。

此処の観光で初めてゆっくりと見学が出来た美術館、ペギー・グッケンハイムコレクションは素晴らしかった。

戦後美術の流れに大きな影響を与えたと云われる作品の数々を集め、抽象美術とシュールレアリズムの違いを教え、キュービズムからダダイズムへの移行の作品、更に未来派の作品へと展開、収集展示されており、絵画の新しい方向を教える作品のコレクトで説明する女性の英語も綺麗で判りやすかった。

アテネは旧跡の多い街で短時間の観光は無理なので、アテネ半日ゆったりコースというのを選んでアテネ市内の古代と現在の観光スポットを観光の後、アクロポリス周辺の眺望のよい丘からパルテノン神殿や周辺の古代ギリシャの遺跡の眺望を楽しんだ。

元気な人達は八、九時間かかる、しかも徒歩の多いコースを選んで、すっかり疲れて帰って来たようである。

クサダシは美しい海岸と、周辺にいくつもの遺跡を控え、エーゲ海有数のリゾート地で、古代都市エフェソスの玄関口として知られている。
エフェソス遺跡は、トルコの数多く残る遺跡の中でも最も壮大で保存状態も良いことで知られている。

かつて三十万の人口を誇った強力な都市の中心部、大理石の敷き詰められた大通り、ローマ時代の噴水アゴラや大理石の柱、二万四千人もの人が収容可能であった大劇場の跡、セルソスの図書館等々広大な敷地にぎっしりつまった遺跡に興味はつきないが、生憎の猛暑ですっかりグロッキーになり、坐り込む回数も増えた。

聖ヨハネの没した此の地の墓の上に建てられた、聖ヨハネの聖堂と廃墟と化したキリスト教の聖地を見学、また聖母マリアが迫害から逃れて住んだという家を見学、この辺から子供を混えた物売りが多くなり付きまとわれる。

イスタンブール、アジアとヨーロッパ両大陸にまたがる歴史的な大都市。此の都市の特徴は、昔の街並や建造物が、そのまま脈々と命を保って残っていることである。

アヤソフィア大聖堂、トプカピ宮殿などの文化跡が有名であるが、グランドバザールのように庶民に人気のある市場も有名だ。

400年にわたるオスマントルコ帝国の代々のサルタンの居城であったトプカピ宮殿は広大な宮殿で、中庭を囲んで建つ建物には、イスラム時代の金銀宝石を始め、陶磁器織物など当時の栄光を偲ぶ多くの品々が展示されている。

ブルーモスクは、内部が青のモザイクタイルで飾られ、ブルーモスクとして知られている。

トルコ帝国の最強の時代に造られたこのイスラム寺院は、天井のステンドグラスから差し込む光に青い壁面が反射し、幻想的な美しさをかもし出す。

長袖、長ズボン着用で入場し、靴は脱いで入る。

アヤソフィア大聖堂は、ギリシャ正教の本山として、ビザンチン建築の枠を集めて作られた壮大な寺院。オスマントルコ時代にイスラム教のモスクとされ、貴重なモザイク画の全てが塗りつぶされるなど、東西交流の要所になっている。

有名なグランドバザールは、三千軒の店が並ぶ広大なアーケード街で、金銀細工を始め絨毯、革製品専門店が多いと云われ、観光客のひしめいている処だが、一寸見ただけで雑踏に辟易して退散した。

ホテルはスイス人経営のなかなか良いホテルであったが、明日は帰国のため、荷物の整理、発送を行い、夕飯をと久しぶりにホテル内の和食堂に入った。
トルコの女性が和服を着てウエイトレスを務めるが、歩き方が外股で様になっていないので着物が泣いている。冗談を云いながら歩き方を教える。

すき焼きを頼んだが、矢張りその土地の美味しい物を食べるべきだと反省させられた。

翌朝のイスタンブール飛行場は大混雑。政情不安もあって警戒が厳しく、写真をとることも厳禁されている。この国においては現在スーパー、デパート等 人が集まる場所での警備体制は厳しく感じられたが、何といってもイスラム文化を直接感じ、東洋と西洋の接点としての印象が強烈で、もう一度この土地だけゆっくりと観光したい魅力を感じた。


父の旅行記を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

バルセロナで乗船し、イスタンブールで下船 2週間の旅も寄港地の観光や船内のイベントをこなすとかなりのハードな旅 1フロアーの廊下の長さが150m以上はあるので、船内移動だけでも大変で、楽な旅を選択したはずでしたが、それでも父にはかなりきつかったのではと今になって思います。

車椅子を借りて移動すれば良かったと後悔しています。父にとって最初で最後のヨーロッパ旅行でした。

それでも好奇心旺盛の父は、沢山の方々にも気軽に声をかけて楽しんでいるようでした。




2015年6月16日火曜日

お知らせとお願い

ブロバイダーの移行に伴い、ホームページが維持できないという事態に陥りました。

これからも長く皆様にホームページやブログをご覧頂きたいと願っていますので、もろもろ変更することに致しました。

久々の変更 ITの世界も随分変化していて、果たして私の技量でこれらの変更を上手に完了できるか不安ですが、今月以内に作業完了させたいと思っています。

このブログに関しては変更はないはずですが、絶対とは言えないです。(情けない!)

ブログが大丈夫な時には、ブログにて新たなホームページ アドレスをご紹介するつもりでいます。

もし、その作業に伴いブログが開かない ブックマークから開かないなど、支障が出た時は申し訳ございませんが

「おしゃべりふくよ」でグーグル検索をお願い致します。

作業に入る前に

もう1回はブログ更新したいと思っています。

ブログアップしない。。。これで皆さんとさようならにならないよう頑張りますので、今後とも
宜しくお願いします。

2015年6月14日日曜日

父の旅行記 地中海クルーズ その1

1999年6月30日から15日間 父と二人でスペイン バルセロナからトルコ イスタンブールまでクルーズ旅行をしました。

父の趣味は沢山ありましたが、その中でも油絵を長く描いていました。100号の大作も多く 宮城県で開催されている河北展でもなんどか受賞するほどだったのですが、仕事も忙しく海外にはなかなか出かけられず、ヨーロッパにも行ったことはありませんでした。

そんな父をヨーロッパに行かせてあげたい 絵になる景色を沢山見て欲しい 美術館にも連れて行きたいと思っていましたが、すでにその頃父は肺気腫を患っていたのではと、今になると思います。

スポーツマンでもあった父が歩くことを極端に嫌がっていました。そんな父が身体に負担が少なくヨーロッパ旅行をする手だてがないかと考えていた時に、クルーズ旅行の広告が目に留まりました。

私もその時はクルーズは未経験でしたが、これなら行けるかもしれないと思い決めました。

帰国後、ある会の意向で紀行文を依頼され、父が書いたものです。

父との旅を思い浮かべながらアップしたいと思います。



6月30日、英国航空でロンドンに向かう。長途の旅行で身体に自信が持てなかったが、此の機会を逸したらチャンスはあるまいと、娘のサポートに一切をまかせて決心した次第です。

幸いに天候に恵まれて快適なフライトであったが、枕が変わると眠れない癖があって、酒をン飲んで心地よさそうな鼾をかいて寝ている人々がうらやましい。
果てしなく続くシベリアの原野の景色は、全く変わりなく2時間も3時間も同じ様に続く。

窓をしめて手元のテレビをつけてみる。日本語訳のついたメロドラマにもすぐ厭きて虫眼鏡を出して旅行先のコートダジュール、バルセロナあたりの案内記を読むが字が細かい上に暗いので難儀である。
膝の後あたりが苦しくなり。機内を歩いてみる。娘の配慮でビジネスクラスの席をとってもらったので私は楽な座席だったわけだが、十二時間の座位の持続はさすがに堪えた。

英国時間で午後二時にロンドン・ヒースロー空港に到着、次のバルセロナへの出発時間が四時間程遅れたために休憩時間が充分にとれた。
空港の待合室は免税店に囲まれ、どの店も世界のブランド商品をあつかっているので仲なか賑やかである。

娘が大きな虫眼鏡を買いに出かけたあと、隣の小母さんに英語で話をしたら日本語で答えが返ってきたのには苦笑。

英語の世界に緊張しつつ、バルセロナ行に搭乗、夕暮れのフランス上空を経てスペインに入る。
ピレネー山脈の峯が夕暮れの雲海の上に黒く突き出して見え、次に光の点が見え始めた。

やがてその光の点はカラフルな線と変わり、図形が出来た途端、綺麗な画像が見えてきた。
シャガールが連想出来る景色に胸を踊らせている内に機は着地。

午後十時の飛行場は静かであったが、日本旅行社の出張員の出迎えがなかなか判らず、少しばかり時間を費やして送ったトランクが無事に到着しているのを確認し、迎えの車でホテルに向かう。

バルセロナ・オリンピックの為に作られたホテルは新市街地に位置していた。石で舗装された道路の両側の歩道に、昔風のスタイルの街路灯が、フランス映画の風景を思い出させる薄暗い深夜の情景で迎えてくれた。

16時間のフライトは疲れた。明日の観光の予定もあるので直ぐにベットに入ることにした。

        *      *              *     *
午前9時、日本旅行社のガイドさんが市内観光のために迎えにきた。日曜日で観光客が多く、何処も人、また人である。
オリンピック競技場、14~15世紀のゴシック建築のカテドラル。ガウディの発想になる百年前からの工事が今もなお継続し、これから先百年で完成するという巨大なキリスト教堂のサクラダファミリアを見学。
設計はすべて複雑な双曲デザインを組み合わせたもの、後の壁面に刻まれた動植物のモチーフも非常に独創的に感じた。

現在工事を担当している建築家達は、ガウディのオリジナル設計を生かしながら、更に自分達の発想を加えて作業をすすめていると云われる。

車中から19世紀建築のレイアル広場を見る。ここの街灯は若き日のガウディによってデザインされたもの。
アーケードに並ぶ店は昔ながらのもので、ここに来ると時がとまってしまった感じがする。
中でもレル・ポラリ・デル・レイというハーブ店は、ネオゴシック風のショーウィンドウを持つお店で、古き良き時代の面影を伝えている。

次にユネスコの世界遺産に認定されているガウディ設計になるクエル公園を観光、15万ヘクタールもある広さを炎天下に歩き続けるとダウン寸前、ガイドの熱心さにやめてとも云えず、迎えの車を見てほっとした。

次はピカソ美術館を見学。石造のヒヤリとした日影に救われた気持ちで、1895年から1904年にかけての作品を見る事が出来た。青の時代の作品や、ディアギレフ・ロシアバレエ団との共同作品や、ベラスケスの作品に着想を得たラスメニーナスシリーズも見逃せない作品であった。ガイドさんは興味深く観ている私達を見て、食事後、乗船前の暫時をミロの美術館に案内してくれた。

ミロの美術館を最後に、港に停泊しているグランド・プリンセス号に向かう。
これから2週間、地中海巡りをするのがこの巨大船で、ガイドと別れ、厳重な検問の後、乗船口で写真入りのパスポートを作られる。

排水量10万9000トンで1998年に建造され、航海時の速力は24ノット、乗客は2594名(日本人は私達2名のみだった)、乗組員1150人。
全長200m 、全巾36mで18階まであり、乗客の出入り出来るのは5階以上。
8階から11階までは客室があり、それ以上の各階にはスカイデッキ、カラオケ・ディスコデッキ、スポーツデッキ、サンデッキ、プールが3つ、 5,6,7階にはプロムナードデッキ、フェスタデッキ、プラザデッキ、カテデッキとある。

医師が三人、看護師5人、他に介護士と呼ばれる人が10人も乗船している。
車椅子の客も多いのはクルージングのせいだろうか。

廊下が長くて、足の弱い私には毎日がきつい通路であった。この長い通路の二個所にエレベータールームがあるのだが。

部屋は素敵なスイートルームでデッキもあったが、大きなダブルベッドが1台おいてあり、これで二週間娘と起居するのには参った。

毎朝、船内新聞が部屋に投函され、その日の観光の事や船内の行事が事細かに案内されている。

文化センターの中ホール程度の劇場が二つ、他にダンスホール、ディスコルーム、カジノ、喫茶ルーム等に、毎晩時間差をおいての催しものを見ていると夜更かしとなる。

船内にはフリータックスの店が4店、航行中だけオープンしている。24時間食事が出来るバイキングスタイルのレストランの他に、毎日席が決められ、お相手も決められているレストランでの定刻の食事は、服装もその日によって決められ、旅行中フォーマル3回、セミフォーマル2回、あとはフリーという具合で、フォーマルの日はアメリカンスタイルのパーティーでお酒を飲みつつお喋りを楽しみ、やがて食堂での食事となる。賑やかな楽しい夕べであった。

私達が同席した御夫妻はアメリカの医師夫妻であり、私達との食事のマナーの違いは、時間をかけ、お喋りをしながら沢山食べるといったところであった。

食事のメニューは地中海スタイル、フランス風とあったが、旅行社が気をきかして日本語のメニューを渡してくれていたので助かったが、ボリュームの多いのには驚いた。

前菜、スープ、サラダ、パスタ、主菜、デザートとなるが、殆ど最後のデザートのケーキ、果物、アイスクリーム等は、三分の一程しか食べられなかった。

フォーマルの服装の日には、各国の独特の礼服を着用してきた。スコットランドのスカート紳士や、韓国のチマチョゴリなどは眼をひいた。
昼は真夏の地中海沿岸の観光でラフスタイルの男女が、礼服に着替えると全く別の世界にきた様に思えた。

船内で賑やかな場所は、昼間はプールサイド、夜はキャバレー、クラシック演奏の劇場、ダンスホールであり、特に三日あったカラオケ大会は大盛況であった。
ダンスは同伴者と最後まで踊り、殆どがリズムダンスで、出発前に予想したものとは大分違った雰囲気であった。

 
次に続く