フォトギャラリーのページに作品と私のお気に入りの品の写真を追加しました。
今回は携帯電話で撮った写真があるので
ちょっと写りが悪くてごめんなさい。楽しんで頂けたら嬉しいです。
2012年3月3日土曜日
お花見
寒がりの私は桜が咲くと春が来た、万歳!!なので、桜が大好きです。
3年前から伊豆の河津桜を見たいと思っていましたが、1月2月がとても忙しく叶いませんでした。
河津桜とは避寒桜と大島桜を掛け合わせて出来た桜だそうです。
鮮やかなピンクの花びらがどんよりした空に春間近を伝えているようです。
今年は寒い冬が続き河津桜もなかなか咲かず、やっと見に行くことが出来ました。
例年ならもう散っている頃なのに今年はやっと咲き始めたばかり。
雨で生憎のお天気でしたが、人出も少なくのんびりとお花見が出来ました。
来週の10日ごろには満開になりそうとか。屋台も沢山あり伊豆の名産や吊り雛などの販売もしています。足湯や温泉もあります。東京からは日帰りで行けます。
3年前から伊豆の河津桜を見たいと思っていましたが、1月2月がとても忙しく叶いませんでした。
河津桜とは避寒桜と大島桜を掛け合わせて出来た桜だそうです。
鮮やかなピンクの花びらがどんよりした空に春間近を伝えているようです。
今年は寒い冬が続き河津桜もなかなか咲かず、やっと見に行くことが出来ました。
例年ならもう散っている頃なのに今年はやっと咲き始めたばかり。
雨で生憎のお天気でしたが、人出も少なくのんびりとお花見が出来ました。
来週の10日ごろには満開になりそうとか。屋台も沢山あり伊豆の名産や吊り雛などの販売もしています。足湯や温泉もあります。東京からは日帰りで行けます。
2012年2月28日火曜日
本屋さん
最近は本屋さんが少なくなったとか。電子書籍なるものも登場しているし。
私も絵付けの資料が沢山になり、ありすぎてどんな資料があるかが判らなくなっています。
少し整理したいと思いますが、見るとどれも捨てられず。。。
時々お散歩を兼ねて近くの図書館に出かけます。最近はなるべく買わずに図書館を利用したいと
思っているのですが。
渋谷の東急デパート本店に書籍売り場が出来ました。図書館のように細かに分類されていて、見ているだけでも楽しいです。
今日テレビで代官山に「代官山蔦屋書店」という本屋が出来たとやっていました。2階は椅子も沢山あってゆっくりとそこで本も読めて、最大の特徴はさまざまなジャンルのプロフェッショナルな方がコンシェルジュとしていて、相談にのってくれるとか。
旅の申し込みカウンターもあり、本を調べてその場で行きたい所のプランが組めるそうで、これは面白そう。探検に行きましょう!
私も絵付けの資料が沢山になり、ありすぎてどんな資料があるかが判らなくなっています。
少し整理したいと思いますが、見るとどれも捨てられず。。。
時々お散歩を兼ねて近くの図書館に出かけます。最近はなるべく買わずに図書館を利用したいと
思っているのですが。
渋谷の東急デパート本店に書籍売り場が出来ました。図書館のように細かに分類されていて、見ているだけでも楽しいです。
今日テレビで代官山に「代官山蔦屋書店」という本屋が出来たとやっていました。2階は椅子も沢山あってゆっくりとそこで本も読めて、最大の特徴はさまざまなジャンルのプロフェッショナルな方がコンシェルジュとしていて、相談にのってくれるとか。
旅の申し込みカウンターもあり、本を調べてその場で行きたい所のプランが組めるそうで、これは面白そう。探検に行きましょう!
2012年2月27日月曜日
気仙沼 復興マルシェ
気仙沼で復興支援「つなぎの会」をしている中村さんから来たメールをご紹介します。
気仙沼にボランティアで来て下さる方と共に、心のケアや物資の協力をしています。
最近は「がんばりっこ」というお人形を作り資金集めのお役にたてばと頑張っています。
「がんばりっこ」がお嫁にいったそうで 嬉しい限りです。
http://www.shishiori-marche.jp/マルシェ日記-ブログ/
0からの再スタートだった方々が、お店を立ち上げる処まで至りました。皆さんの頑張りに拍手です!
気仙沼にボランティアで来て下さる方と共に、心のケアや物資の協力をしています。
最近は「がんばりっこ」というお人形を作り資金集めのお役にたてばと頑張っています。
皆様お元気ですか?今週もつなぎの学校はおやすみでしたが 皆様からいただいた物質と 埼玉の方が可愛く作って送ってくれた「がんばりっこ」を 先週お伝えした鹿折の仮設店舗「福幸マルシェ」の小野寺さんのお店と つなぎの会のスタッフでもある高橋さんの美容室「ウェル」さんのお店に置いてきました。
「復幸マルシェ」のブログに「がんばりっこ」のことをのせてくれたそうです。よかったらぜひ 見てください。
それから茅ヶ崎では 気仙沼産「がんばりっこ」と茅ヶ崎のと合わせて 総勢1 17名の「がんばりっこ」で撮影会がありました。カメラマンの方に撮っていただいて 絵はがきのようになるそうです。すごーく嬉しいです
以前宣伝させていただいた震災の手記の本「31人の声」が釜山の大学で講義に使われることになったそうです。びっくり!嬉しいです。
つなぎの学校の銀行口座も出来ました!(つなぎ土曜学校は長いのでつなぎの学校に変えました。実際のところ土曜以外もやっているので) 毎月 食費を削って寄付いただいている方もいて 本当に有難いです。「がんばりっこ」の売り上げも口座に送ってもらったりできるようになりましたご活用ください。
今後のお知らせです。
3月3日(土) 午後 手仕事
3月11日(日)13時半~
龍笛とクリスタルボールのコラボ
~天と地を繋ぐ魂の響き 龍笛&クリスタルボウル~
2年前より主に地元各地でコラボレーションで活動
昨年は京都・大阪で演奏会を行う
龍笛 山下進 東松島在住
雅楽で使われる横笛の楽器病院や老人施設で訪問演奏、結婚式・お祭りなどの演奏活動等、昨年6月8日にはKスタで試合前に「君が代」を演奏!
クリスタルボウル 安達季久子 仙台在住
水晶でできたボウル型のヒーリングの楽器
毎月仙台市天文台プラネタリウムで演奏
普段は自宅でサウンドヒーリング等を行っています!
龍笛の凛とした音色で浄化し、
やわらかなクリスタルボウルの波動と共鳴することで
深い癒しがもたらされます。
心にも体にも心地よい響きをお楽しみくださいませ!
みんなでねっころがりながら 音色で癒されましょう
では まだまだインフルエンザも流行しています。皆様も気をつけてくださいね
0からの再スタートだった方々が、お店を立ち上げる処まで至りました。皆さんの頑張りに拍手です!
上海の旅
父と上海に行きました。父は在宅酸素という24時間酸素を利用していました。国内旅行は事前に手続きをすると、旅先に酸素ボンベと酸素の機械を届けてもらえます。なので、道中の酸素ボンベだけ持てば旅も出来ました。
飛行機も当時は(ニューヨークでテロが起きる前でした)国内の航空会社をはじめ、ヨーロッパ・アメリカの航空会社は酸素を利用したままの搭乗が出来ました。
父の負担を軽くするために仙台から上海に行くことにしましたので、中国の航空会社を利用しました。
当時友人が上海に駐在していて、上海での酸素のことやいざという時に駆け込む病院の事など調べて下さいました。
日頃利用している酸素会社にも中国での酸素事情など調べてもらい、在宅酸素の会の方にもお話を伺いました。結果、中国ではまだ自宅で酸素が使えるようなシステムは無いようでした。
そんな訳で滞在期間中に必要な酸素ボンベを全部持参することにしました。車いすも用意し、20キロの酸素と身の回り品を持ってと大変な荷物になりました。
航空会社とはなんども搭乗に必要な書類のやり取りをし、いよいよ出発です。
沢山の荷物に車いすの父、車を運転し仙台空港に行きました。搭乗券をもらい荷物を預け、さあ搭乗という時に、航空会社の担当者が「感染性の病気ではない」という証明書が必要だと言い出しました。チケットを買うまでしつこいくらい何度も必要書類について問い合わせをして、要求される書類を提出していたのにです。
その日は日曜日、父の主治医は盛岡の先生。どうやって連絡とるのよです。頭が真っ白になりました。相手は書類がなければ乗れないの一点張り。仕方なく病院に電話をし、先生に連絡をとって頂きました。幸いなことに先生が口頭で証明して下さり翌日に書類をFAXで送るということで、やっと搭乗することが出来ました。
帰りに又同じことが起こっては大変なので、そのことを伝えて機上。
上海では手配したガイドや友人が出迎えてくれてほっとしました。上海は高層ビルが多く大都会です。その頃はまだ、低層階の古い街並みも少し残っていました。
上海に住む友人のおかげで上海博物館・豫園・お買いものと毎日が楽しく快適でした。父も酸素に車いすと中国ではない姿で行きかう人に珍しそうに見られましたが、とても元気。
足をのばし杭州にも行きました。34度いう暑さで遊覧船に乗ってもぐったりです。楼外婁で好物の豚の角煮を食べました。とろけるように柔らかく美味しかったです。
湖は中国でも有名な景色のいい所ということでしたが、十和田湖など日本の美しい湖を知っている私達には水も汚くて感激はありませんでした。
杭州に2泊する予定でしたがあまりの暑さで1泊で上海に戻りました。
足揉みマッサージを受けたり、JAZZのライブを聞いたり
1週間というゆったりとしたスケジュールで上海を満喫し帰国の日を迎えました。
上海空港で搭乗券を受け取り、荷物を預けお世話になったガイドや友人と別れ、出国手続きをした後に、また、飛行機に乗せることが出来ないと言われました。
今度は酸素が危険物だというのです。行きには乗れたのにと訴えても駄目の一点張り。訳の判らないやり取りをしている間にいつの間にか10人ぐらいの人に囲まれ個室に連れていかれました。
酸素はもう最後の1本だけ。これがなくなったらどうしていいか、、、
無事に帰国するしかないのです。かなりのやりとりの後、今使っている酸素を抜けば乗せると。
仕方なく抜くことに同意しました。彼らには酸素を抜くとはどういうことかもよく判っていない模様。
人が行き来している広い場所で抜けと言う。ボンベを開放にするとものすごい勢いで酸素が出て
それに驚いて止めろと騒ぎ、搭乗時に酸素を預ければ乗せると言い出しました。
どうでも良いから乗るしか道はありません。ちょっと偉そうな係官が父の車いすを押しゲートに向かいます。若い係官がずっとその係官に文句?を言いながらついてきます。
なんとか搭乗しボンベを預けました。それを確認し彼らは降りていきます。どうやらこのやりとりのせいで出発出来ないでいたようです。すぐに出発し安定飛行に移った時、機内にいた日本人医師が来てくれて無理しない方がいいですよと言って下さいました。
父も皆さんにご迷惑をかけた申し訳なさもあり、大丈夫ですと酸素無で頑張りました。
あまりに大変な搭乗だったので、飛行時間もあっという間に感じました。
私の旅の中でも一番大変な旅でした。
飛行機も当時は(ニューヨークでテロが起きる前でした)国内の航空会社をはじめ、ヨーロッパ・アメリカの航空会社は酸素を利用したままの搭乗が出来ました。
父の負担を軽くするために仙台から上海に行くことにしましたので、中国の航空会社を利用しました。
当時友人が上海に駐在していて、上海での酸素のことやいざという時に駆け込む病院の事など調べて下さいました。
日頃利用している酸素会社にも中国での酸素事情など調べてもらい、在宅酸素の会の方にもお話を伺いました。結果、中国ではまだ自宅で酸素が使えるようなシステムは無いようでした。
そんな訳で滞在期間中に必要な酸素ボンベを全部持参することにしました。車いすも用意し、20キロの酸素と身の回り品を持ってと大変な荷物になりました。
航空会社とはなんども搭乗に必要な書類のやり取りをし、いよいよ出発です。
沢山の荷物に車いすの父、車を運転し仙台空港に行きました。搭乗券をもらい荷物を預け、さあ搭乗という時に、航空会社の担当者が「感染性の病気ではない」という証明書が必要だと言い出しました。チケットを買うまでしつこいくらい何度も必要書類について問い合わせをして、要求される書類を提出していたのにです。
その日は日曜日、父の主治医は盛岡の先生。どうやって連絡とるのよです。頭が真っ白になりました。相手は書類がなければ乗れないの一点張り。仕方なく病院に電話をし、先生に連絡をとって頂きました。幸いなことに先生が口頭で証明して下さり翌日に書類をFAXで送るということで、やっと搭乗することが出来ました。
帰りに又同じことが起こっては大変なので、そのことを伝えて機上。
上海では手配したガイドや友人が出迎えてくれてほっとしました。上海は高層ビルが多く大都会です。その頃はまだ、低層階の古い街並みも少し残っていました。
上海に住む友人のおかげで上海博物館・豫園・お買いものと毎日が楽しく快適でした。父も酸素に車いすと中国ではない姿で行きかう人に珍しそうに見られましたが、とても元気。
足をのばし杭州にも行きました。34度いう暑さで遊覧船に乗ってもぐったりです。楼外婁で好物の豚の角煮を食べました。とろけるように柔らかく美味しかったです。
湖は中国でも有名な景色のいい所ということでしたが、十和田湖など日本の美しい湖を知っている私達には水も汚くて感激はありませんでした。
杭州に2泊する予定でしたがあまりの暑さで1泊で上海に戻りました。
足揉みマッサージを受けたり、JAZZのライブを聞いたり
1週間というゆったりとしたスケジュールで上海を満喫し帰国の日を迎えました。
上海空港で搭乗券を受け取り、荷物を預けお世話になったガイドや友人と別れ、出国手続きをした後に、また、飛行機に乗せることが出来ないと言われました。
今度は酸素が危険物だというのです。行きには乗れたのにと訴えても駄目の一点張り。訳の判らないやり取りをしている間にいつの間にか10人ぐらいの人に囲まれ個室に連れていかれました。
酸素はもう最後の1本だけ。これがなくなったらどうしていいか、、、
無事に帰国するしかないのです。かなりのやりとりの後、今使っている酸素を抜けば乗せると。
仕方なく抜くことに同意しました。彼らには酸素を抜くとはどういうことかもよく判っていない模様。
人が行き来している広い場所で抜けと言う。ボンベを開放にするとものすごい勢いで酸素が出て
それに驚いて止めろと騒ぎ、搭乗時に酸素を預ければ乗せると言い出しました。
どうでも良いから乗るしか道はありません。ちょっと偉そうな係官が父の車いすを押しゲートに向かいます。若い係官がずっとその係官に文句?を言いながらついてきます。
なんとか搭乗しボンベを預けました。それを確認し彼らは降りていきます。どうやらこのやりとりのせいで出発出来ないでいたようです。すぐに出発し安定飛行に移った時、機内にいた日本人医師が来てくれて無理しない方がいいですよと言って下さいました。
父も皆さんにご迷惑をかけた申し訳なさもあり、大丈夫ですと酸素無で頑張りました。
あまりに大変な搭乗だったので、飛行時間もあっという間に感じました。
私の旅の中でも一番大変な旅でした。
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