2012年2月23日木曜日

大震災に思うこと

2月22日、ニュージーランドの地震から1年が過ぎました。

あの日ニュースを見た時には遠い所の出来事でしたが、その後身近な方のご親戚がその地震でお亡くなりになったと伺い、ご遺族のお気持ちをおもうと、あのニュースを見るのもつらく感じました。

まさかその後に日本でも恐ろしいことが起こるとは思ってもいませんでしたが。。。

私の実家は岩手県の一関という所にあります。宮城県境に位置した内陸部ですが、東は宮城県気仙沼市、岩手県陸前高田市と隣接しています。

沿岸部に親戚、友人、仕事関係等‥関わりのある方が多く居住しています。津波の被害があまりにもひどかったので、内陸部の被害はほとんど報道されませんでしたが、一関は4年前にも大きな地震があり、やっと道などが改修されたばかりの出来事でした。

私もなんどか震度5は体験していました。用心深い私は3・11以前から、ベットの脇にヘルメットと運動靴を置き、ラジオ付懐中電灯も用意していました。浴室には水用のポリタンク、家具には突っ張り棒、割れて困る食器には「ひっつき虫」という粘着剤を貼り、滑り止めのラバーマットを引いています。飛んで困る家電にも粘着剤で固定しています。

実家も同じような対策をしてあったので、細かいものは被害が少なかったのですが、大きなテレビは
飛び、男性5人で動かしてもびくともしない食器棚が10cm移動しました。
梁・柱がずれ、土壁が落ちて靴を履かないと家の中が歩けない状態でした。

修理するのに半年ほどかかりました。昨年夏に実家で過ごした時、地鳴りがしてから地震が来るので
怖かったです。その後に海外に出かけましたが、揺れてるはずがない所でもしばらくの間揺れてる感じが残ったほどでした。

地震の恐怖感は今の方が強くなったように思います。

震災関連の映像も見るのがつらいです。

震災後気仙沼に何度か行きました。気仙沼で自宅が津波から免れた友人2名が被災した方の支援をしています。
私と一関の友人2名とで、応援部隊を結成しました。

以前所属していた協会の方や、同級生、友人、そのまた関係グループなど、沢山の方の協力で
衣類をはじめ、台所用品、食器、断熱材等‥お送り出来ました。

まだまだ復興には程遠い状態のようですが、それでも知恵を出し合い地元の方々は頑張っています。

3月11日にはほかの友人が新宿の小田急のコンコースで支援のためのチャリティ会を行います。

気仙沼の「おひさま」という保育園は震災で園長さんがお亡くなりになり、園も流され、今、仮の場所で保育士さんが何とか再建にむけて頑張っています。コンクリートの床で底冷えがしていましたが、
皆さんのご協力で敷物や断熱材を送って頂き、冬の灯油代も寄付して頂きました。

山形の建設業の方が無償で園を建てて下さるというお話もあるようですが、その為に贈与税が40%かかるということで、こちらへの義媛金を募集しています。

気仙沼は漁業の街ですが、関連会社があった所が津波に合い、加工工場などの建造物がすっかりなくなってしまいました。仕事がなく、家族総出でわずかな仕事でもしなくてはならないのです。今は狭い仮設住宅で子供を保育園に預けなければ、仕事も出来ないので、保育園は大事な役割を担っています。

今日も友人から電話があり、日用消耗品の支援をして頂けると。。
困った時はお互い様、
一人一人は小さな力ですが、合わせれば強い力になります。

明日は我が身
これからもお手伝いしていけたらと思います。
協力して頂ける方いつでも大歓迎です。ご一報頂けたら嬉しいです。

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