この旅の話が完結していなくて、なんだか宿題が残っている気分なので、少し間があいてしまいましたが続けますね。
夜行列車で東ドイツのベルリン発22時18分フランクフルト8時45分着。38,2ドル。30分遅れで到着です。
東ドイツにはゆっくり1週間滞在し、特に治安も悪くなかったのですが、なんだかやっぱり暗い空気があり、西側に戻ってホッとしました。
英語が通じる所に戻ったのも、大して話せないにもかかわらず、とっても楽な気分
フランクフルトからロマンチック街道行きのバスに乗りました。
ロマンチック街道は日本人にも人気のコースです。
http://allabout.co.jp/gm/gc/45466/
ローテンブルグでバスを降り、ホテルを探す予定でした。
ところがバスを降りる時に激しく雨が降っていて、スーツケースを引きずりながらのホテル探しは
なんだか大変そう
そんな時ドイツ人のおばあさんが「地球の歩き方」の本を持って
なにやら宿の斡旋をしていました。
おばあさんはドイツ語しか喋らない。私たちはドイツ語は判らない。
だけど、宿探しも面倒なのでついて行くことにしました。
その本におばあさんの家が民宿として書いてありました。
Pension Kate Mayer 1泊35マルク
おばあさんの家は思ったより大きくて綺麗でした。他にも泊まっている人はいるようです。
夜行列車とバスの旅で疲れていたので、夕食を食べてお風呂に入り早めに寝ることにしました。
私たちの部屋は2階で部屋の隣に浴室があり、寝る時にちょっと不安だったので、廊下につながるドアの鍵をかけて休みました。
疲れていたので爆睡し、朝になりました。
そこで事件が。。。。
おばあさんがなにやら怒って騒いでいます。何を言っているか判りません。朝食付きだったので1階のダイニングに行きました。日本人のご夫婦が泊まっていて、おばあさんが怒っている意味を教えてくれました。
私たちが泊まった部屋の隣にもう一つドアがあり、そこも寝室だったそうで、そこに泊まることになっていた男の子が深夜に帰ってきたら、鍵がかかっていて部屋に入れず、たぶんドアをドンドン叩いたのかもしれませんが、私たちは爆睡していたわけで。。。。。
ホテルではないので、家の間取りも判らないし、ひたすら謝ってご機嫌直して頂きましたが、おかげで美しいローテンブルグの思い出はこの事しか覚えていません。
海外民宿初体験はいやはやとんだ体験になってしまいました。
中世の都市の姿をもっとも完全に残しているところとか、小さな町は観光客で溢れ、日本人も沢山。東ドイツで珍しいものでも見るようにじろじろ観察された日々とは大違いです。ただ、物価が通常に戻っただけなのに、安い価格に慣れてしまっていたので、なんでも高く感じました。
ローテンブルグからまたバスに乗り、ミュンヘンに行きました。
ホテルはアメリカ資本の日本にもあるヒルトンホテルを予約していました。
ここなら安心だろうと思ったのですが。。。
その頃中東で戦争がありました。もう20数年前の旅なので詳しいことは忘れてしまいましたが、ドイツもかかわっていたのか、そのホテルには白いターバンを巻き白い長い服を着た負傷兵が沢山泊まっていたのです。
エレベーターに乗ろうとすると、エレベーターの中に顔を負傷している人や、生々しい傷をおった兵士だらけ。
部屋も壊れている所があり、廊下もなんだか騒がしく荒々しい気配。
1泊で恐ろしくなって、また他のホテルを探すことになりました。
ミュンヘンからバスでノイシュヴァンシュタイン城のあるFussenに行きました。
写真でもよく見る、デェズニーランドのシンデレラ城はこのお城を模したものと言われています。
思っていた以上に山奥で、森と湖がある美しい所でしたが、お城は外観のイメージと違って意外と地味なお城で、フランスのお城のような華やかさはなく、ドイツらしい固い感じのお城でした。
近くでパラセーラーをやっている人をみかけました。
こんな美しい景色を空から見れたら気持ちいいだろうな~と、ちょっぴり羨ましく思いました。
ホーエンシュバンガウ城も見学
行きの飛行機で一緒だった一人旅の女の子と偶然再会しました。
ミュンヘンの駅のそばは治安が悪く、怪しい薬をやっているような人もみかけます。駅の中にホテルがあったので翌日の移動を考えてここに泊まることにしました。Hotel Bundesbahn 148マルク
内部はこじんまりとしていましたが綺麗で、快適でした。
ミュンヘンでは、アルテピナコテークという美術館が素晴らしかったです。
翌日はフィレンツエまで夜行列車で移動です。駅で出発まで待っている間、英語を話す外人さんとお喋りをしたら、なんだか天候が悪く列車が運休になるかもしれないと教えてくれました。
またミュンヘンでホテル探しをしなければならないかと、一瞬不安になりましたが親切な彼が情報収集をしてくれて、列車は出ると教えてくれました。ミュンヘン23時20分発
フィレンツエ9時13分着の予定でしたが、1時間遅れで到着しました。
宿で苦労の連続の西ドイツでした。
列車に乗る時、フィレンツエ行きかと英語で車内の人に尋ねたのですが通じません。何回か言い換えたのですが???
ふと、気が付きました。フィレンツエはイタリア語読みの地名。英語圏の人にはフローレンスなのです。言い換えたらやっと通じました。ベネツエアも英語はベニス。混乱します。国際列車は車両が途中で切り離され違う場所に行ってしまうので、車両のチェックが重要です。
西ドイツから、ユーレイルパスを使い始めたのですが、使用開始の刻印を入れてもらうのを忘れ
列車で仲良くなったブラジル人に通訳してもらい、一安心。
駅でホテルを予約したのですが、長蛇の列、1時間かかりもうぐったりです。
フィレンツエは町中が美術館のよう。歩いて行ける範囲に沢山の教会や美術館・博物館があります。ウフィツイ美術館は有名です。あの頃はそんなに混んでなくゆっくりと見ることが出来ました。
後に爆破事件があり、今は入場も制限をしたり、手荷物検査があり、父と訪れた時は1時間以上並んだのに入ることが出来ませんでした。ハイシーズンに行かれる方は半日は覚悟した方がよさそうです。
私が特に好きになったのは、宝飾店が立ち並ぶベッキオ橋を渡った右側にあるピッティ宮殿内にある数々の美術館・博物館です。特に磁器博物館はイタリアの磁器を知る上で、とても参考になりました。
近くにあるトスカーナ料理のレストランで食べたステーキは300gはありそうな肉の塊でしたが、
美味でした。フィレンツエであさりのパスタを食べようとしたら、ここは海じゃないよと言われてしまいました。イタリア人は食のこだわりが強く、後にイタリアに留学した日本人の方に伺った話では
日本食をこっそり食べていたら、そんなに食べたいなら日本に帰りなさいと大家さんに言われたことがあるそうです。
イタリア料理は日本人にはなじみもあり、美味しいですが、それでも毎日オリーブ油の料理を食べていると、日本のさっぱりしたものが懐かしく思います。
フィレンツエの駅のタクシー乗り場で、赤ん坊を抱いたジプシーの女性にお金をねだられて、そのしつこさにぐったり疲れました。駅のタクシー乗り場はスリも多く油断出来ない場所です。
フィレンツエ発14時30分ベニス着18時45分。30分遅れで到着
ベニスは今までと全く異なるまぶしい太陽と、陽気なイタリア人。ヨーロッパは地続きなのに、国で人柄もすごく変わります。
ベニスは世界中からの観光客であふれていました。迷路のような細い路地を歩くのもウキウキしました。大好きな魚介類の料理も久しぶりで、元気が戻って来たようです。ベネチアガラスで有名なムラノ島やレースのブラノ島、5~9世紀に人口2万人もいたというトルチェッロ島見どころも満載でした。ベニスでも駅から乗った水上バスが途中で全員下ろされたり、スーツケースを持ってホテルに辿り着くまで大変でした。Hotel Monte Carlo
交通は水上バス、水上タクシー、そしてご存じのゴンドラです。車は入れません。世界中から観光客が訪れるだけあって、どこを見ても絵になる景色です。
ここにも軍艦が停泊していて、ベニスの景色には違和感を感じました。
ベニスからまた列車でミラノに向かいました。ベニス発16時10分列車はコンパートメント(個室型で6人用)、偶然日本人の男性と同室になり、英語を話すミラノ在住のイタリア人の男性とよもやま話で盛り上がりました。
ミラノ着18時55分(5分遅れ) イタリアに入ってから列車はいつも予定時間に着きません。
ミラノも日本で予約してあったホテルに泊まりましたが、素敵なホテルでした。Hotel Diana Majestic部屋も30畳くらいの広さで、古い建物で趣があります。テレビをつけたら、日本のアニメ「佐助」をやっていましたが、イタリア語の佐助はなんだか不思議です。
ドゥオモの巨大さに圧倒され、サンタ マリア デッレ グラツイエ教会の「最後の晩餐」を鑑賞
久々にショッピングも満喫。ミラノのマダムの大人の雰囲気にあこがれました。あんな風にお洒落に歳がとれたら素敵だな~と感心したり
ミラノは大都会でイタリアの他の土地と違い、道行く人もきちんとしたビジネスマン風の人が多いです。それまで映画などで見ていたイタリア人のイメージとは随分違うように思いました。ベニスではちょっと油断すると騙されそうでしたが、ミラノはきちんとしていました。
イタリアは食べ物も土地により異なり、日本でも東北や関西では異なりますが、イタリアも土地により人柄も随分異なるように思いました。
今回でこの旅の話は終了にしたかったのですが、また長くなり完結出来ませんでした。続きは又後日にしましょう。
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