2012年8月30日木曜日

あの日


気仙沼で仮設商店街 復幸マルシェを立ち上げ、頑張っているいつも前向きな小野寺さんが、facebookで、彼女が体験した3・11の事を語っています。
どこに住む者であっても、心しておかなければならない今、過酷な中でも助け合って生きぬいた
彼女たちのその時を私たちも学習しておかなければと思いました。
 
東京では近隣のお付き合いが希薄です。私の住むマンションでも、会えばご挨拶は交わしますが
3・11からの数週間、建物内でほとんど人に会うこともありませんでした。
 
あの時ほど孤独な東京暮らしを感じたことはありませんでした。
もし、何かが起こったらと考えると、不安になります。
1年以上たってから、親しい友人も同じ思いだったと聞きました。家族だけでなく友人同士でも、日ごろから有事の際のネットワーク作りを考えておいたほうがいいですね。



気仙沼、復幸マルシェから近い場所の3・12の状況です。
現在は瓦礫は綺麗に撤去されて、更地になり、大きな船だけが残っています。被災された方達には
辛い思い出につながるので、この船も撤去して欲しいと希望される方が多いそうです。
 

高台の親戚宅から、この光景を見ていました。
真っ暗な夜に、街が真っ赤に燃えて、プロパンガスがバーン!バーン!と爆発音をたてていて、火の気がこっちにきたら、ここも逃げるようだねと何度もカーテンを開け外の様子を見ていました。
翌朝、外にでるとこの光景。
豊かな生活から一瞬にして、戦時中の生活の転落。
井戸水を汲み、マキでご飯を炊き、用水路でヘドロの衣類を手洗いし、主人と息子は、ヘドロまみれの缶詰や缶コーヒーを拾い集め、ストーブで温め、皆で食べたり、飲んだりしました。
また男手が必要だと 遺体を高台に上げたりもしていました。

一瞬にして多くのものを失いましたが、
不思議な事に、避難所の皆は常に笑っていました。
会う友達との会話も 『うち、家なくなったの!』 『うちも~(笑)』
『車、流しちゃった!』 『うち一台!』 『うちは二台よ~(笑)』 てな具合でした。
あまりの大惨事で、泣き言をいう人やメソメソしてる人はいませんでした。 不思議に思うかもしれませんが、みんながゲラゲラと笑って過ごしていました。

電気がないので、夜の星は、本当にキレイでした。
食糧等の支援物資は、そこにいる人たちで均等に分け合いました。
不平不満を言う人もいませんでした。
『助け合うこと』 『分かち合うこと』 は日本人のDNAに組み込まれているんだと確信し、避難所で本来ならとても大変な状況なのですが、
『日本人で本当によかったなあ~。』 と幸せな気持ちで過ごしました。
何も持たずに避難して、多くの方に支えられて、今日まできました
築4年の自宅は全壊、店舗は流出。
一見、不幸に見えますが、
『命があれば、また歩きだせる』 『人との繋がりが何よりの財産
気づくものもたくさんありました。
この写真を提供してくれた気仙沼市内の写真屋さんも
被災し、その中でも息子の高校の卒業アルバムの再発行や
クラス写真を洗浄し、皆さんの手に渡るようにしてくださいました
今でも、あの時のうれしさをはっきり覚えています。

私たちは、マイナスからゼロに向かって歩いているかもしれません
前進している事には、変わりありません。
生き残った以上、前に進むしかないのです。


...


現在の復幸マルシェ

小野寺さんのお店には来た人とお喋りをするコーナーもあります。
facebookでは美味しい取扱食材も紹介されています。facebookなさっている方はご覧下さいね。
お取り寄せも出来ますよ!
http://www.facebook.com/pages/山長-小野寺商店/411496898889412#!/ShishioriMarche/info


復幸マルシェHPアドレスです

 http://www.shishiori-marche.jp/

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